求人広告のひみつ

求人コピーライターが教える、正しい求人広告の読み方

大学生まで、わりと、本気で、プロの漫画家を目指していました

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今週のお題「二十歳」 

今回は自分語りです。ちよっと20歳からズレてしまうタイミングの話なのですが許してください。多くの人たちの人生の選択肢「転職」に関わってきた僕ですが、そもそも仕事についてどんなことを考えてきた人間なのかというと、「意識が高い人間」とは到底言えず、恥の多い人生を歩んでまいりました(涙)。

 

人生で一番最初に「仕事」について考えるタイミングとは、小学校低学年の時に書かされる「なりたい職業の絵」ではないでしょうか。僕はそこに「漫画家になりたい」と書いている子どもだったんですね。

 

キッカケは『ドラえもん

映画の『のび太の海底鬼岩城』を観て興奮した僕は、生まれて初めて漫画の単行本を買ってもらいました。それが『大長編ドラえもん のび太の海底鬼岩城』です。何度読み直したか分かりません。その単行本は今も大切にしています。自分でお話を考えたい。多くの人たちに読んでもらいたい。そんな思いがあふれ、「プロの漫画家になりたい」と思うようになったのです。

 

ノートマンガを描きまくる

小学生になると、僕はノートマンガを書きはじめました。自由帳に定規でコマを書き、ボールペンの一発描きで、マンガを描いていくのです。クラスで目立つ存在だった僕が描いているマンガは、男子生徒たちの間で「面白い」と話題になり、気分の良くなった僕はそれで気を良くして描き続けました。

どんなマンガを描いていたかというと、王道の少年マンガです。ひょんなことから超常的なチカラを手に入れた主人公の少年が、宇宙船に乗っていろんな星をめぐる冒険の旅に出る…というもので、当時僕を夢中にさせたマンガや映画の面白いところがぎゅっと詰まった、そんなしょうもない作品でした。

そのノートマンガは100巻までつづきました。ノート100冊ですね。朝でも、昼でも、夜でも、ノートと定規とボールペンがあったら、どこでもマンガを描いていたんですね。小学校の卒業式の前日に最終話を描き終え、読者だったクラスメイトたちからも、「ついに終わっちゃったな」「なんか涙が出てきた」と言われ、僕は一つの達成感を味わったのでした。しかし、これは新しい挑戦の幕開けに過ぎなかったのです。

 

ペンとインクで描くマンガと青春

プロの漫画家になることを目指していた僕は、中学生になって、本格的なプロ仕様でマンガを描きはじめます。Gペン丸ペン、インク、ケント紙、スクリーントーンといったものを揃え、新しい作品づくりに着手したのです。

最初に立ちはだかったのは、金銭的な問題でした。道具を揃えるのにお金がかかる。ケント紙は1枚40円くらいしたので、ノートマンガのように量をこなしていくのは不可能でした。これまでとはまったく異なる、鉛筆で下描きをして丁寧に描いていくスタイルも、本調子が出ないため大きなストレスに。マンガ家への道は険しいものでした。

その後、年頃の中学生らしく、可憐な同級生の女の子のことが好きになったり。漫画家志望の陰キャらしく、描いているマンガにその子に似た女の子を出したり。アオハルの住人らしく、彼女に告白してフラれて、その彼女に告白したことを笑い話として周囲に風潮され、自殺まで考えるほどハートがボロボロになったのですが、

「人類の半分は女だ。あの子の代わりはどこにでもいる」

という親友の言葉に助けられたり。が、地元にいるのが辛くなり、他県の進学校に進学して、地元を捨ててイヤなことから逃げたのでした。

 

暗黒の高校時代

かくして僕は他県の高校に通い始めます。マンガを描けばよかったのですが、描けなくなってしまったんですね。それは、中学生の時に大好きだった女の子に言われた、「マンガなんか描いているネクラ野郎」という言葉が呪いとして心に突き刺さっていたからです。マンガと向き合うと、あの子のこととあの言葉を思い出す。そんな状態に陥っていたのでした。

とどめとなったのは、保健委員の女子の言葉でした。クラス全員の検尿を集めて保健室に運ぶことがあって。男子保健委員だった僕は、女子保健委員の子が女子の検尿が入った大きな袋を持つのが大変そうだったので、「僕が持ってってあげるよ」と言ったんですね。するとその子は僕のことをキッと睨んで言いました。

「オシッコ、見るんでしょ?」と。

これはショックでした。僕は女子からそういう目で見られているスクールカースト最底辺のゴミクズなんだと。

これで完全に女性恐怖症に陥った僕は、青春を謳歌する同級生たちをしり目に、暗い暗い暗黒の高校生活を送ることになり、乙一さんの小説の主人公みたいに、クラスの端っこで息を潜めて暮らしていくのでした。

 

大学に入って漫画研究会へ

大学に入り、僕は漫画研究会に入りました。ただのオタクサークルが多い漫研の中では、ウチの大学の漫研は真面目な分類に入っており、マンガを描いて、同人誌を作って、作品を批評し合って、次回作に活かしていくことを活動していたんですね。僕は水を得た魚のように、創作にいそしみました、失った何かを取り戻すかのように、描いて描いて描きまくる日々です。講義の最中にネームを描きましたし、バイト代はほとんどスクリーントーンに使いました。

創作少年のジャンルでコミケに同人誌を出して、仲間たちで批評し合い、また次の作品を描いていく。出版社に持ち込みに行ったり、プロとして働いている先輩のアシスタントに入ったり。小太りの先輩から大量のビデオテープを渡されて、『美少女戦士セーラームーン』や『新世紀エヴァンゲリオン』を全話観させられたり。カラオケでみんなと肩を組んで『激!帝国華撃団』を熱唱したり。それなりに充実したマンガ生活を送っていたと思います。

ただ、厳しい世界であることを自覚したのもこの頃でした。

同じ漫画研究会でも美大漫研会員の画力はすさまじいんですね。同じ年齢でコミケで固定ファンがついて壁サークルになっている人もいる。ついこの間コミケで知り合った人が雑誌のコンテストに受賞しているのを見たり。確実に、「選ばれし者」と「そうでない者」の実力差を感じることが多くなってきたのです。僕は当然「後者」です。そして学生の大半は、大学3年生の時に「決断」を迫られます。そう、就職活動です。僕にもその時が来ました。

 

自分には何が足りないんだろう

そんなことをずっと考えました。そして思い当たったのは、中学、高校の時の体育会系の人たちのこと。彼らはずっと部活をやっているので勉強できないんですよ。でも、3年の夏で引退して、そこから勉強し始めて、どんどん成績の順位を上げていく。あの爆発力に何度煮え湯を飲まされてきたことか。

ああ、そうか。それだ。

ストイックに1つのことに取り組んできた経験が、自分にはないってことに気がついたんですね。マンガを描くことには情熱を持っていましたが、高校3年間は沈黙していたわけだし。学生時代からマンガで頭角を現している人たちって、僕なんかよりずっと、もっとマンガにのめり込んでいて。他のいろいろなことを犠牲にしてでもマンガを描いている人たちだったんですね。『バクマン。』でいうところの新妻エイジみたいな天才たちがたくさんひしめいているわけで。

あ、勝てない。

そう思いました。いや、喰らいついて、マンガを描き続けるという選択もあったと思います。でも、「武器」のない自分が続けたところで何かを得られるイメージが、その時は本当に湧きませんでした。

思い返せば、18年間ずっと描き続け、それ以外の仕事に就くなんて想像もしてこなかった、プロのマンガ家になるという夢。22歳のとき、僕はその夢を諦めました。

 

大人になる、ということ

「夢を諦めること=大人になること」と言いたいわけじゃありません。目の前の現実と向き合って、自分の弱点を向き合い、新しい一歩を歩み始める勇気を持つことって、誰にでもできることじゃないと思います。大人になるということは、新しい夢を見つけるということなのではないでしょうか。

僕の場合、この決断をしたときは、そんなこと全然考えていませんでした。今、ふり返ると、「そうだったんじゃないかな?」といえるくらいの話です。

正しい選択をするんじゃない。選択を正しいものにする。

人生って、そういうものだと思います。

そして、大した自己分析も業界勉強も就職対策もしないまま、僕は大学4年生の就職活動にのぞむわけですが、そこには、後に「就職氷河期」とよばれる恐ろしい現実が待っていたのでした。

 

ここから大変だったのですが、この続きはまた別の機会に(笑)。

 

 

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